通水管|91歳、初めて語るヒロシマ

  隠してきたわけではなかった。ただ、好んで人前に出る性格ではない。国鉄マンとして仕事に邁進(まいしん)し、忙しくもあった。鎌倉市の伊達昭二さん(91)は被爆体験を披瀝通水管することはなかった。 だが、戦後73年のこの夏、初めて大勢の前で広島を語る。ひたすら遺体を担ぎ続けたあの日々を-。   ■■■ 1945年8月6通水管、当時18歳の伊達さんは広島県内にあった陸軍の教育隊で特別幹部候補生を指導していた。昼ごろ、「広島市内に『ピカドン』という新型爆弾が落とされ、壊滅状態になった。救護に行通水管くように」と通達があった。 翌7日朝、生徒約50人を連れて広島駅に降り立つ。「辺り一面の焼け野原。建物はつぶれ、煙が立ちこめたような悪臭が漂っていた」。部隊本部通水管らは生存者を救護所に搬送し、その後は遺体を練兵場に運んで並べるよう指示された。 道すがら、数多(あまた)の遺体を見たが、特に子どもばかりが記憶に残る。多くがへそ通水管から腸が飛び出していた。救護所で聞くと「子どものへそはまだ柔らかく、腸が出てしまったのではないか」。その苦痛を思い、胸が痛んだ。 練兵場では20代半ばとおぼしき通水管性から涙ながらに懇願された。「3歳の息子だと思う遺体を見つけたが、連れて帰れない。火葬してほしい」。周囲には有り余るほどの木材が転がっている。体が小さい子どもなら火葬で通水管きると考えた。 だが、腹部がどうしても焼け残る。それでも女性は廃虚の中で拾ってきた土瓶に小さなお骨を入れ、亡き息子に語り掛けた。「良かったね、これで帰れるね」 #=========#